好きかも、と呟いた声は風に掻き消された。
秋の少し肌寒い空の下、廃ビルの屋上でのひととき。
元々はマンションが建つ予定だった場所は、今は廃ビルとなっていた。
童実野町は今でこそにょきにょきとビルが建ち並び、都会と呼ぶに相応しい街並みとなっている。
それもこれも、海馬コーポレーションの本社が童実野町にあり工業が特に秀でて発展しているからである。
廃ビルは誰の手も付けられず、工事も数年前から放棄されており今ではそこにあることが当たり前の物となっている。景観を損なっていると思っているのは誰もいない。
危ないと分かっていても魅力的な子どもの遊び場であったり、夜はちょっと危ない場所に早変わり。
この日、城之内は廃ビルの屋上にいた。何の支えも無い屋上でビル風を感じながら柵の外へ足を投げ出しぶらぶらとさせながら、縁(へり)に座って陽が沈むのを眺めていた。
特にバイトもなく、誰とも遊ぶ約束をしていない日は大概ここにいる。
家に帰ったとしても泥酔した父親がいるか、または家庭内暴力の応酬をするかのどちらかしかない。そんな現場には居合わせたくない城之内は、父親がいなくなる夜までどこかで時間を潰すしかない。
そんな時に、ここの廃ビルにやってきた。
以降、すっかり何もない日はここに通うことが習慣のようになっている。
「城之内、危ないんだけど」
今日は偶然にも一人ではなかった。
空中へ投げ出した両足をぶらぶらとさせながら、上半身を仰け反らせる。
「いーのいーの。落ちねえから」
「あんたが落ちなくても、見てるこっちが危なっかしいんだよ」
「んー…じゃあ、そっち行く」
心配されてるのに、ずっとそこに居るような神経を持ち合わせていない城之内は、中央部にある鉄筋の固められた場所へ行く。
埃を気にするわけでもなく、どさりとそこに座りこれで落ちないぜ、なんて笑って答えた。
「…にしてもさ、なんで舞がここにいるんだよ?」
「あたしがいたら悪いって聞こえるんだけど?」
「あ、バレた?」
からかうような口調で城之内が答えれば、舞は眉間に皺を寄せ不満そうな表情をする。
こういう城之内の冗談は珍しい。人を邪険にしない程度でからかうような冗談は言うが、今日みたいな口調で言うのはまるで城之内じゃないみたいだ。
舞は境界線を引かれてしまったかのような感覚に、不機嫌を顕わにした。
「あたしとは居たくないわけ?」
「嘘だって。暇だし、舞がいてくれて良かったぜ」
少し気になる言葉があったわけでもないが、それ一つで機嫌が良くなる。なんとも現金なものだと思いながら、舞は城之内の横に腰を下ろした。
横に座ったときに、城之内は笑顔を向けたのだ。元々、喜怒哀楽が激しいため、これ位はいつものことだったので釣られるように微笑む。
騒がしい男の、こういう静かな時間は中々に巡ってこないが良いものだと思う。
「…あれ?」
「なに?」
「舞って脱色?」
舞の髪の毛をそっと触り、不器用で細いけれど男を思わせる指でひと束を梳くように持ち上げた。
「あんたどこ見て言ってんだよ。これのどこが脱色だって言うのよ」
あんたこそ脱色なんじゃないの?と城之内の茶色にも金にも見える髪の毛を掬い取る。想像よりも柔らかく手触りの良さに、何故か嫉妬をしてしまいそうになった。
後頭部辺りはアホ毛が目立つが、それ以外はストレートといっていい髪。
よく見れば、なんとも毛並みがいい。
「俺も地毛だって。俺はさ、ちょっと色素薄いだけじゃん。なのに舞はキレーな金だからさあ」
「母親に似ただけだよ。昔はこの色、嫌いだったけどね」
子どもの頃、色が違うだけで苛められたり妬まれたりした過去がある。だからか、自分の髪の色が嫌いで仕方が無かった。
今となれば笑い話だけれども。
「俺も俺も。その後、喧嘩して勝ったけどな!」
「あんたらしいね。あたしは泣いてばっかだったけど」
「うわ、信じらんねえ」
「あたしにだって、か弱い乙女だった時期はあるんだよ」
舞がそう言うと城之内が笑った。
思わず舞も笑ってしまう。
頭を寄せ合って、悪戯が成功したかのように二人で見合いながら笑う。二人とも何が楽しいなんてことがない。
何故だか、二人で居ると心地がいい。互いに欠けた何かを補うような充足感。そんなものを感じる。
ひとしきり笑い、満足した後はただぼんやりと陽が沈む寸前の空を見上げる。
どこでも同じものが見れるけれど、何だか今日の夕焼けは綺麗だと舞は思った。そんな感情を与えたのは、今のところ城之内だけ。
恋人でも友人でも何でもない城之内にそんな力があると思えないのに、何でもないことが綺麗に見える魔法を使ってしまう。彼は不思議な男だと舞は思う。
例え、横にいたのが遊戯であっても本田であっても同じことを思うに違いない。
不思議な感覚に陥っていたとき、城之内が空を眺めながら言葉を選ぶように口を開く。
「でもさ、俺…舞の髪」
城之内の口だけが動く。
何を言ったかは聞き取れなかった。
強いビル風に掻き消された。
「…なに?」
「……んー…なんでも」
ぷい、と舞から顔を逸らしてしまう。
背伸びを余りしない城之内だけれど、それが子どもっぽく可愛らしくて舞は喉を鳴らして笑う。
後ろを向いている彼に気取られないよう、ただ声を押し殺して笑う。
「あたしもあんたの髪、好きよ?」
聞こえないよう小声で呟いて、舞は城之内の肩に頭を預けたのだった。
2007.09.12