「首尾は?」
「良くない。全く以って良くないわ」
帰社早々に新聞を広げたまま、視線をこちらに寄越さない三上さんに尋ねられた。手に持ったクッキーの袋が情けなく揺れている。
靴を脱ぎ、ルームシューズに履きかえて彼の側に近寄る。
新聞から全く目を離さないのに周りも見ているみたいで、ソファの自分の真横の場所を手で叩く。つまりは隣に来いということ。こうやって呼ばれたときには驚いたものだけど、慣れればなんてことない。
ふかふかというよりは、ずぶりと身体が沈むソファに浅く腰掛けてクッキーの袋を開ける。
「今日は?」
「リンゴジャム入り」
食べる?と尋ねるまでもなくクッキーを差し出せば、パクリと口に含まれる。
私もあっちで食べてきたけど、改めて味わう。うん、美味しい。なんとも癖になる味で、一度食べるとたまに食べたくなって仕方なくなるのよ。昨日のママレードクッキーも一昨日のチョコチップクッキーも美味しかった。でも一週間前の木苺クッキーが凄く美味しかったからまた食べたいわ。あ、その次の日のチーズケーキ!あれは凄く美味しかった!見た目はベイクドチーズっぽいのに、ふんわりトロトロ。もう、他所のチーズケーキが食べれなくなるくらいに!
ケーキを思い浮かべてうっとりとしていると、食べかけのクッキーが浚(さら)われる。あ、と声を上げたときには既に三上さんの口の中。
こういうことを平気でする人だとは思わなかった私は、初めはとても驚いたわ。でも本当に慣れって怖い。突然だからさっきは声を上げたけれど、特に驚きはない。
何も食べかけを取らなくても新しいものを取ればいいのに、と誰だって思うでしょうけどこれは彼の癖らしい。の癖がすぐに人の物を欲しがるみたいに、三上さんは食べかけだろうと食べたくなればなんでも構わないみたい。…つまりは二人とも人の物でも欲しいものは欲しいってことよね。
似た者同士ってやつ?このジャイアン気質。
Dream makerS
桐原探偵事務所事件ファイル
「にしても、椎名って奴は尻尾は出さねぇのか?」
「彼は立派な人間よ。もしかしたら狐かもしれないけど」
ため息が出る。すると一拍置いた彼は、昨日は狸だったな、なんて言った。少しムっとして、出来ない部下でごめんなさいね!と嫌味で返す。
「心にも思ってねぇくせして」
「……………」
クツクツと楽しそうに喉を震わせながら、私の手の中にあった袋からクッキーを一枚取り出す。右耳にサクリという音が響いた。
ここまでからかわれると流石にムカつくわ。ムカつくムカつくと言ったところで、この件が片付くわけじゃないから口には出さないけど!
そうよ、この件。
私にクッキーをくれた相手が調査対象なんだけれど、それを調べて来いっていうのが私の仕事。
こんなだらだらした調査なんかを既に二週間も続けているのに、全く何の進歩も見せない。寧ろ進歩したのは調査対象との仲。ただの一見が気付けば常連に。ぎこちなかった会話も今ではスムーズよ。
…つまるところ、詰まってますってこと。
出口さえふさがれた袋小路に入ったまま出られなくてどうしようもないの。
そうだわ!この二週間、三上さんだってサポートしてくれたけど何の甲斐もなかった。私が三上さんにタメ口を使えるようになったくらい。だって敬語は嫌って言うんだもの、仕方ないでしょ。とは言っても、タメ口に抵抗が無くも無いんだけど。
「…ねえ、聞きたいんだけど」
「なんだよ」
「この依頼が達成出来なかったらどうなるの?」
「どうもなりゃしねーよ。依頼相手からの信用が落ちるだけで。俺達は俺達のやれることをやったんだ、これ以上のことを望まれてもそりゃ無理ってもんだ」
誰にだって完全に熟(こな)せる依頼なんざねーよ、と独り言のように呟いた。遠回しだけど、この依頼が出来なくても気にするなって言ってくれてるみたい。
「…最初はね、言い方悪いけど押し付け、だったじゃない」
「悪くねーよ。の体(てい)の良いたらい回しだ」
「そこまでは流石に思ってないわよ…。まあ、でもそれに近かったじゃない」
には悪気が無くても、どうしたら良いか分からないまま放り出された私は、本当に困っていた。
なんの成果もなく半ば自己嫌悪に陥りながら帰って、やっと依頼書に目を通した。
問題有りどころか、本職の人達にもどうしようもない依頼を新人一人に任せるなんてどうかしてると思ったわ。社会は即戦力を欲してるけど誰も彼もが(って訳じゃないけど…)新人なんだから、習うより慣れるなんて無理。
だけど三上さんがサポートをしてくれて、この二週間親身になってくれたから何とかやってこれた。二週間、自分なりに探偵ってやつを学んだつもりよ。
「ねぇ、三上さん」
「ん?」
「私はこの依頼を投げ出すつもりは無いわ。だから、協力…」
「惜しむつもりはねぇよ。がそう言うってンなら、俺も本気を出すしかねぇよ」
「三上さん…」
なっ、と優しげに微笑まれて私は泣きたくなる。だけど何でだろう…何か今ひっかかる感じ…。
三上さんと目が合う。残り二枚のクッキーのうちの一枚に手を伸ばしながら、優しげな表情を崩さない。そして最後のクッキーを私の口に放り込む。
ぱりぱりと音を立てて噛み砕きながら、何が引っ掛かっているのか考える。
…私が依頼は諦めないって言った後……。
俺も本気…を、本気?
「…本気を?」
「、紅茶でも飲むか?」
「あ、うん。欲しい。オレンジペコはあったっけ?」
「ああ、まだある。ちょっと待ってろ」
私の真横の深く窪んだものが浮き上がる。バランスを崩しそうになって慌てて手をソファに付く。だけど悲しいことに、柔らかいソファに上半身ごと沈んでしまった。
沈み込んだ私を見下ろしながら、三上さんは大丈夫かと声をかける。ちょっとね…と返したものの、鼻の頭を打ったせいで痛い。
たかが鼻の頭。だけど、ずるりと崩れるように落ちたせいか、ちょっとどころかかなり痛いのよ…。
笑いながら手を差し出されて、それに縋るようにすれば引き起こしてくれた。
うぅ…本気で痛い。…本気で…?本気…。
「…あぁーッ!」
「なんだよ?」
「あなた!手を抜いてたの!?」
確かにそう思うと、完全に手を抜かれていたって言っても過言じゃない。毎日調査対象の所に行っては手土産を持たされてる私から、それを抜き取って頷くだけだったわよね!
特にどうこうってアドバイスじゃなくて、私のぼやく愚痴だけを聞いては、あの美味しいお菓子に舌鼓を打つだけだった。
一番親身にしてくれるってだけでちょっと、ううん、すっごい尊敬した私のピュアな感情を返して!
そもそも私に依頼を簡単に押し付けたは帰ってすら来ないし、もう本当にどうなってるのよ!
体制を立て直した頃には彼はまたキッチンの方に戻っていて、お湯でポットとティーカップを温めている。今日は結構本格的なところからするのね…じゃなくて!もっと言ってやろうなんて思って、口を開こうとした瞬間に先に口を挟まれてしまった。
「手を抜いてたなんて心外だな」
「アドバイスの一つもくれないで、心外だなんてそれはこっちの台詞よ!」
三上さんは紅茶の用意をしながら、手厳しいだなんて喉を鳴らして楽しそうにしている。
全然楽しくないわよ、寧ろ不愉快よ。
「新人がどこまでやれるかって見るのも先輩の仕事だろ?」
「新人が困ってる時に手を貸すのも先輩の仕事じゃないの?」
社会経験の無い私からしたら、ドラマとか本とかで手に入れた情報しか無いけど?それでもちょっとは手を貸すものじゃないの?
信じられない!と怒ってるうちに、早々に紅茶が出来たらしく私の前にソーサーと共に置きながら、彼はまた私の横に座る。もともと良く沈むソファのせいで、体重がある方に必然的に凹み、私は彼の方に体が傾く。
骨ばった肩に頬が当たってちょっと痛かったけど、そんなことはお構い無しに紅茶と一緒に淹れたらしいコーヒーを一口啜る。肩越しに三上さんが何となく笑ってるのは良く分かる。震えてるんだもの。
「一期一会ってやつだろ」
「何よ、私と調査対象の一期一会って意味なの?」
「いーや、毎日の調査は一生に一回のことだと思って真剣にやれよってこと。今日限りで全て終了、そう思って誠心誠意頑張れって意味」
「……何、ちょっといいこと言ってるのよ」
「それが先輩の俺からのへの新人教育」
でもそれも今日で終わりだ、と三上さんは新聞を広げながら言う。
「狸だか狐だかの皮を剥がして、どんなもんが中に入ってるのか知りたくなった」
「………」
「明日からは俺の指示通りに動け、悪いようにはしねぇよ」
そして新聞の特に取りとめの無い記事の上を指で弾き、私に向かってそう言ったのだった。