Colling

!」

 呼ばれて俺は振り返る。正直、その呼び声は聞き飽きた。
 遠くからはザアザアと雨が降る音が聞こえる。初夏と梅雨とがタッグを組んだ戦いは、暫く終わりそうにもない。
 余りの気持ち悪さに、衣替えが間近に控えているというのに嬉しい気持ちにはならない。出来るのならば、雨を止めてくれさえすればいい。
 そんな俺とは対照的に、声の主はいつになくご機嫌な様子で、俺の横に立った。

「どした」
「ただ呼んだだけだ。問題でもあるか」
「いや。…呼んだだけ、ね」

 ジトジトジメジメしていて、余りいい気分じゃない俺は深く追求するのも煩わしくて軽く聞き流して、また歩き出す。
 相手はどこへ向かうのかは一切聞いてこない。目的地は一緒だと思うから。
 好き好んで雨の日に真面目に授業を受けてる奴なんて、数える程しか居ないんだろうな。
 俺は絶対に嫌だな。気持ち悪い悪天候と、嫌なコンビを結成してやる気を損なわせるんだから。格別好きではない勉強も、今日という日だと嫌悪感さえ覚える。
 目的地に辿り着くなり、遠慮なく扉を開ける。そこに人は居なかった。
 独特の香りと雰囲気を纏ったそこは、授業をサボるにはうって付けである。
 入り口から近しいところにあるカーテンを開き、見た目からも固いと窺えるベッドへとダイブをする。派手にスプリングの軋む音がする。
 ここに誰も居ないから出来ることだった。
 付いて来たあいつも、誰もいない空いたベッドへと腰をかけた。
 二人しか居ない空間で妙な虚空感と虚無を味わう。
 暫くは沈黙が続いた。聞こえるのは雨のシトシトと降る音だけ。
 音に耳を傾けることにも飽き、目だけをそいつに向ければベッドから立ち上がって俺の真横に座った。
 より重みがかかり、ギシ…と軋む音がした。

「なに?」
「別に」
「構ってほしいの?跡部」
「バカ言え。つまんねぇこと言ってンじゃねぇよ」

 クシャリと頭を撫でられる。暫く為すがままで居たら、後頭部に腕を回された。
 その手はすぐに上へと持ち上げられた。不自然な姿勢で苦しかったけれども、わざわざ逆らうのも面倒だったので跡部に身を任せる。
 顔が不意に近付いてくる。この感覚、よく味わっているけれど心臓に悪い。
 柔らかい感触を唇に感じた時、瞳が勝手に閉じていた。男同士だとかには抵抗が無いわけじゃないけれど、跡部だから許せる…そんな気持ちだった。
 不思議で仕方が無い。
 長く長く感じるこの瞬間が気持ちいいとさえ思えてくる。

「…ぅん…」

 呼吸を忘れて意識を唇に移していたから、苦しくなって身じろぎをすると跡部は唇を軽く吸って離れた。

「息ぐらい出来るようにしとけ」
「…何で」
「近いうちにそれ以上をしてやるから」
「そう…。ならこのままでいいよ。別に、して欲しくないし」

 そう言い切ると、もう一度貪るかの様に唇を奪われる。
 この状況が決していいとは思っていない。俺も、跡部もただじゃれているだけだ。それ以上の感情なんて抱いていない。
 実際、跡部にはきちんとした想い人が存在する。
 俺にもそういう人物が居ないわけじゃない。
 ただただ…俺達は辛い恋をしているから、その傷口を舐めあっているだけにしか過ぎない。こうすることで、互いに気が紛れるのならば、喜んで身を委ねたっていい。
 それに俺は跡部から与えられるキスが嫌いじゃない。寧ろ、好きだとさえ思える。
 舐めあっている傷口が官能的になるのも、時間の問題だと知っているけれども。
 互いに、想いが、吹っ切れた…のならば。
 この辛い想いに蹴りをつけるのは難しいと思う。だから、そんな時が訪れるのはもっと先だろう。
 跡部が俺の頭に回している腕に力を込める。
 委ねていた体が思わず強張ってしまう。

「!?」

 呼吸が続かなくて、顔を離そうとしたからとは思うけれども、そうやって頭を押さえつけられると離そうにも離せない上に呼吸だって続かない。
 軽い抵抗は試みたが、決して離さないということは長い経験上知っている。
 観念してしまう方がいいらしい。
 軽く口を開ける。その隙間を縫って舌が差し込まれた。
 …いつまで経ってもこれだけは慣れない。
 抵抗することすら止めて、ダラリと垂れる腕が薄目を開けたときに見える。初めてこんなことをされた時は、嫌というほど抵抗したのを思い出す。
 本来ならば抵抗するのが普通なんだろうが、俺はどちらかというと流されている方が気楽で仕方が無い。
 呼吸が出来なくて、頭がぼんやりとしてくる。その間にも、跡部は俺の口内を好き勝手に犯している。こういう事を、跡部は想い人にしたいんだろう。
 どこか、通じない想いを持て余している跡部から、助けを求める声が聞こえてくるような錯覚に陥る。
 ぼんやりとする意識の中で、辛うじて保っていた理性と意識を持ち跡部の制服の裾を引っ張る。

…」
「…ん……ふ…ぁ…」

 言いたいことがあるというのに、唇を離されても舌だけは絡めてくる跡部にそのまま流されてしまう。後頭部に回されていた手の力が抜ける。
 呼吸を整えて、きちんと思考が廻った時には完全に顔が遠ざかっていた。

「…ね、いつになったら諦め…」
「一生無理な話だ」
「そう」
こそ、いつ諦めんだよ」
「俺も一生無理な話…」

 互いに決して通じない恋をしているから。だから、傷口を舐めあっているだけ。
 そう思っていても、いつもこの余韻が消えない時間は誰よりも目の前に居る彼が愛しく感じる。
 けれども、束の間のこと。
 助けを求めているように思えた跡部もすぐに、いつも通りに戻る。
 静かになった保健室には、ザアザアという雨が降り落ちる音だけが響いた。
 この瞬間だけ、俺も彼も想い人の存在から解放される気がする。
 軽く、跡部の手を握る。

「…俺、お前がそこそこ好きだよ?」
「そりゃ、どーも」

 ザアザアと振り続ける雨に、俺の本音は掻き消された。


水系のオノマトペを使うのは大好きです。ザアザアだけでも何か一本書けるくらいです。

モドル ▽