偶然 = 必然
Platonic love
確かに彼は私なんかを好きだと言った。婚約破棄もした。
部屋の片隅で足を抱えて色々と独りで唸っていると、本日8度目の彼からの電話が鳴り響く。手は伸びるけれども決してそれに受け答えしようとしない所が実に自分らしく、嘲笑いすら漏れてくる。
ああ、このまま鳴り止まぬ携帯を水に沈めてしまえば、どれだけ静かだろうか。
こんな歪んだ考えをする自分がおかしく思えてきた。
この騒動と情緒不安になってしまって、ここ数日は仕事も休んで家から一歩も出ていない。
買い溜めしておいたインスタントラーメンや野菜は。もう無くなっている。一応食べなければ生きていけないことくらいは分かっているからか、毎日欠かさず3食は食べていた。けれども、少し痩せたんじゃないだろうかとも思う。
去年、安いからといって大量に買い込んだ服のうちで。入らないものが数点あったけれども今は着れてしまう。やはり痩せたみたいだ。
そんなことを考えていると着信音が鳴り止む。そして8度目の留守番電話に用件も八件目が追加される。
音が漏れているので、彼の声を聞きながらテレビのリモコンを持つ。迷わずにスイッチを入れた。
小さな独特の音を立ててテレビは明るく光を宿す。嬉しそうに赤や青、黄色の色とりどりの色を目一杯に画面に映し出している。
そこに映し出されたものは、彼の顔と彼の友人たち。
なんだか知らないけれども三日くらい前から、可笑しい方向に話題が転じている。
三日前までは一日一回程度しか携帯は着信しなかった。なのにどうして回数が増えたんだろうか。それを思い出すと笑いすら込み上げてくる。
中学時代の友人の近藤君と彼…三上亮が久しぶりに会って居酒屋かなにかで話をしていたらしい。
その場に偶然居合わせたゴシップ記者がその会話を忠実に…いや、有ること無いことを面白おかしく書き週間誌に載せられた。そうして婚約破棄した彼の過去を勝手に清算されているらしい。
勿論だけれども、ここ数日は私のことも取り上げられている。
芸能界とは何と暇なものだろうか。人の恋愛事情に首を突っ込みたがって掻き乱して、プライベートなんて有って無いようなもの。
そんな世界に入り込むこと自体が嫌い。
だからこのテレビの報道には少しの苛立ちと、彼への嘲笑が混じってつい笑いが込み上げてくる。
今でも好きなのか、と問われれば確かに好きと言える。けれども携帯電話にしか電話をかけて来ない彼の情けなさは嫌い。
『三上の過去がどうであろうが、俺達はそれを見てきましたし知っています。だからそれを報道するのは…』
この三日間で何度聞いたか分からない、渋沢君のこの言葉。
彼って本当に友情に厚い人よね。だからかも知れないけれども、三上という人物には彼が丁度いいポジションにいる唯一無二の人物なんだろう。
無二といえば、近藤君は既にサッカー関係から足を洗って今ではスポーツライターになっている。最近有名になり出したところに、この報道があったものだから今や売れに売れるライターと化したんじゃないだろうか。
そして本日九度目の電話がかかってくる。
もう、私のことなんて忘れてくれれば苦しまないで済んだのに。どうして出会ってしまったのだろうか、どうして私を想ってくれるのだろうか。
いつも彼のことで泣いたり悩んだりしないといけないのだろうか。
泣いてしまいたい気持ちで一杯になった時にインターホンが鳴る。
こんな時に一体誰なんだろうか。報道陣も流石に私の家までは来る気配もないので、きっと宅配便かなにかかもしれない。
先日、電話で自家農園の野菜を送ると実家の母が言っていたので、もしかしたらその可能性もある。
もしそうだとしたら出なければならない。不在記録を貰って再配達を頼むことが面倒くさい。
思いのほか重い足取りで、扉の先の人物が誰かも確認せずにドアノブを捻る。
「…!」
「…いるんなら電話ぐらい出ろ…馬鹿」
私の視界一杯に広がったのは漆黒だった。彼独特の、黒い黒い褪せることの無い色をした髪が目の前に広がる。マンションの階段を駆け上がって来たようで、インターホンの所に手を掛け視線だけを私に移して中腰になっている。
ドアを閉めようとした途端に、有らぬ力で扉を一杯に広げられる。
「ちょ…ちょっと!」
「…」
名前を呼ばれると、あの日彼と別れた時を思い出す。途端にヒールで転んだ場所が痛みを訴え始めた。
時間が止まっていたかのような錯覚に身を強張らせる私を見て、彼は不安そうに見下ろしてくる。
そしてもう一度「」とはっきりとした声色で呼ばれる。透き通った一筋の曇りも無い空の様に、そんな声で呼ばれる。
私はそんな声で呼ばれるほど澄んではいない。穢れすぎている自分が途端に悲しくさえ思えてきた。いつも純粋な声で私を呼ぶ彼に、私はどんな声で彼の名を呼べばいいのかも分からない。
昔のように明るい声で彼を呼べるのであれば、もっと素直にさえなっていただろう。
頬に冷たいものが流れる。自分が泣いているんだと気付いたとき、何故だか無性に人肌に飢えている自分がいた。
もう何年も触れていない温もりが目の前にある。
「…ごめん…ごめんな…泣かせたの、俺だよな…。ごめんな…」
何故、彼が謝るのか判らない。もう、なにもかもが分からない。ただ涙を零していると、急に抱きしめられる。
決して嫌じゃない。寧ろ、体が歓喜の声を上げている。
そう気付いたときには、彼が私を抱きかかえ部屋の中へと入っていた。咄嗟のことに驚いて、声も上げることが出来なかった。すごく情けない私。
けれども、こんなときに一つ思い出した。彼のこと。
中学生の頃に体調不良で倒れた時に一度だけ抱えられたことがあった。今みたいに柔らかくそして力強くもなくて、もっと頼りなかったけれど。
クラスの中でも公認の仲と言われていたのに、一度も愛情表現をしてくれなかった彼。私を抱えた時の彼の面倒くさそうな横顔を覚えている。
あの時は酷く心を痛めた。
付き合ってくれとも、好きだとも言われていなかったけれど心のどこかでは通じているんだと思っていた。あの頃の幼稚な自分の感情を裂かれたような瞬間だった。
あれ程に惨めなことは無かった。それならばいっそのこと、倒れた私を放っておいてくれれば繊細な乙女心というのは傷つかなかったのかもしれない。
なのに、今はどうしてそんなに優しくするの?
もしかしてそのまま、また私を捨てるの?優しくするだけしておいて、また私から離れていくの?ねぇ、そうなの?
声には出せなかった。今、彼に抱きかかえられていると思うだけで、体が嬉しさに震えだしている。そのせいで口が動かなかった。
彼を傷つけたくない、少しでもこの温もりを感じていたい。
自分の体のどこかでそう叫んでいる。いや、全身が私の口を動かす術を奪い取ってしまっている。
それでも心だけは殻に閉じこもったまま。このアンバランスな感情のせいで私はどうしていいか分からない。
「…悪い」
「………………」
「…」
「…呼ばないで。名前を…呼ばないで」
「それは聞けない」
ガバリと私は面(おもて)を上げた。瞬間、目が会った。彼の目をまともに見たのは随分久しぶりだった。
心を見透かされている様な気がして、瞳に映る自分の穢れを見たくなくて目を逸らしてしまう。これで彼が傷ついたんじゃないだろうか、そんなことを思ってしまう。
嫌われるのなら、今のうちがいい。私の中で想いがこれ以上、膨れ上がる前でいい。
だから…今のうちに拒絶して欲しい。昔とは変わってしまった私を拒絶するなら、今のうちにして…お願い。
昔みたいに捨てて頂戴。
愛想が尽きたって、もう要らないって言って捨てて頂戴。
そうしたら、苦しまないわ。また、貴方という人を忘れられるように努力するから。
「どれだけ拒絶されてもいい。…だから、の名前を呼ぶ権利を俺だけに欲しい」
「…」
言葉を失った。
あぁ、どうして?どうして私を嫌わないの?
要らないって言ったのは貴方。
そして、私は貴方を突き放した人間。それに心のどこかで、今の貴方が置かれている状況を嘲笑っていたのに。
こんなにも醜い私をどうして想ってくれるの?それが分からない。
だから貴方は人から好かれるのよ。だから貴方はそうやって人の心に入り込むのよ。だから貴方はそうやって人を傷つけるの。
それが凶器だとも知らずに持っているなんて…純粋な心を持ち続けてるのね。
「…帰って貰えるかしら」
こうやって突き放すことで、自分が救われるなら。こうやって突き放すことで、貴方を一生繋ぎとめていられるのなら。
喜んで悪魔に身売りだって出来てしまう。
「嫌だ」
「どうして。どうして私に執着なんてするの!?一度は捨てた女でしょう?貴方の身勝手で捨てた女でしょう!?都合のいい時だけいつもいつも私に近寄ろうなんて馬鹿げてるわ!」
「そうだよ!俺が捨てたんだ…。最初は…最初は別段なんとも思ってなかった」
「それだったら私にも都合がいいわ。だから帰って」
自分がまだ彼の腕の中にいるということを忘れている様で、必死にそう彼の腕の中で叫ぶ。
説得力というものが欠如してしまっているのは、誰が見ても一目瞭然なんじゃないだろうか。
「けど…前にも言った通りにに会って痛感したって。出会う女に必ずを見出そうとしてた。それで自分を埋めようとしてたんだ…」
「今更…」
「理解して貰えないってのはよく判ってる。でも、この数日よく考えさせられた。を知っている人間全てに、俺の行動がを傷つけていたことを指摘された…」
「…今更、理解したの?」
「あぁ…。ごめんな…。でも、今は違う。この数日散々悩んで悩んで、やっとの家のインターホンを押せた。凄く…勇気が要った…」
抱きしめられている腕により力が入ってきて、苦しくなってくる。少し身じろぎをしてそれを潜り抜けようと思ったけれども彼は決して離してくれない。
「好きなんだ…いや、愛している」
「……!」
いつか…全身の毛が逆立った気がしたのをはっきりと体は覚えている。
けれどもこの今にも泣きそうな声で、そう呟かれた瞬間にあの時とは違う、何か胸を締め付けられるような感覚に陥った。
この感覚を味わったのは中学の頃、彼と知り合って親しくして貰って…周りから認められた時以来の感覚だった。甘酸っぱいような…人はそれを初恋の感情と呼ぶものだろうか。
まさか今更そんな感情を味わうとは思ってもみなかった。
「……」
呟かれた瞬間に腕が彼の背に移動しようとしていた。
それを思い留まらせたのがテレビからのノイズだった。時間にして数分しかテレビから離れていなかったので、彼の報道をまだしていた様だった。
その瞬間に流れた映像は彼の婚約破棄のシーンだった。横目で見た時に、始めて知った。その清々しいまでに思い切った表情に。今まで神妙な表情だとばかり思っていたその顔は、私が知っている彼の表情のどれにも当て嵌まらない程柔らかく微笑んでいた。
婚約破棄なのに、何故微笑むのか。それは…それは…。
「…のことを想ってた。二度と会えないと思ってたお前に会えた嬉しさで…ずっと想いながら会見受けてた」
「な…!」
「不純でごめん」
「………都合のいい男よ、貴方」
そこまで言われると、今まで張っていた意地もプライドも、閉じこもっていた殻さえ粉々に粉砕されてしまった。もう、自分に正直になろう。そう思った。
変わったのは私じゃなくて彼だった。幼稚な中学生の恋愛を描いていたのは私だった。
捨てられたことをこんなに恨むほど彼が好きだった。そう、認めるあげる。
固まっていた腕をそっと彼の背に回して、小さな声で呟く。
「私がまだ想っていたことを感謝しなさい…馬鹿」
「…馬鹿でもいい、なんでもいい。……」
「今度私を捨てたら…もう都合よくなんて行かないんだから…」
「分かってる。もう捨てない、絶対に離さない」
「…好きよ…亮…」
自分に素直になった瞬間に、今までかかっていた霧のようなものが晴れていくような気がした。
嬉しくて、情けなくて、ちょっぴり許せなくて涙が出てきた。
ああ、私はこんなにも彼を愛していたんだと、はじめて知った瞬間だった。
なんだかこそばゆい話です。