「センパイ、泊めて」
彼が私の顔を見るなり言った言葉がそれだった。
仮にもオトコとオンナという、全く別の生き物が同じ屋根の下にいるとどういう現象が起きるか分かって言っているのだろうか。
例え間違いは起きなくとも、彼を泊めてしまったという事実は揉み消せない。
「え…、無理」
こういうやり取りをしているから親しいのかと思われるかもしれないが、私の彼に対する認識は酷く曖昧なものだったりする。
余り良いとは言えない記憶の淵を探っても、彼は五つ下の後輩だ。
つい先日、大学時代の後輩に遭遇した時に紹介された子。新歓コンパと言っていたから、サークルの子だろう。
その時は、ちょっと挨拶をしただけの関係だったはずだけど。
浅いどころか、干上がった関係の私の家に押しかけるなり、彼は当然の如く言った。
泊めて、と。
断れば不服そうにした彼は、理由を尋ねてくる。
殆ど見知らぬ男性を部屋に上げるほど、私は危機感が薄い女じゃないということを伝えれば、彼はにっこりと笑う。
「理工学部物理化学科一年。三上亮。学籍は56024048」
理工学部って、うちのR大でもあらゆる意味(容姿とか頭脳とか奇人変人とか)で粒揃いとか言われている学部。更に、倍率が38.8と言われているような学科にいるというだけで驚く。
だけどそれとこれとは別だ。追い返そうと口を開こうとしたら、みかみくんとやらの方が早かった。
「俺の名前は分かった?」
「みかみあきらくん?」
「センパイ、もう見知らぬ男じゃないよな」
微笑んだ顔が真っ黒に見えたのは、決して気のせいじゃない。
なにも見なかった振りをしてドアノブを手前に引く。
しかし、玄関を閉めようにも、押しかけのセールスマンみたいに片足を差し込まれ、どうすることも出来なくなってしまった。
更に私と彼の力具合は歴然で、いとも簡単に扉を開けられる。
力強く扉を引かれ、思わずふらついた瞬間に部屋に上がられてしまう。私が呆然としているのを良いことにスニーカーを脱ぎ捨て、ずかずかと無断で入っていく。
「ちょっ…ちょっと!」
制止をかけた時には色々と既に遅く、冷蔵庫を物色し始めていたのだった。
「センパイ、結構なんも入ってねえのな」
「悪い!?じゃなくて、みかみくん!」
あなたのしていることは、間違いなく犯罪よ。と言えば、にへらっと笑う。
黒い笑みを見せられた後の無邪気な笑みは、なにか裏があるような気がして落ち着かない。みかみくんはなにも言わずに、にこにこと私を見る。
思わず怖じけ付きながら、彼が無断で取ったビールを取り返すべく近付く。
ビールは毎日がストレスとの戦いである私の唯一の活力源。ただでさえ安月給なんだから、返してもらわないと困る。
でなきゃ、発狂する。
「毎月十万」
私の大切なお酒を遠慮無しに開けながら、心持ちゆっくりと彼は言葉を紡ぐ。
「生活費、それで手を打たない?センパイ」
甘い言葉には裏がある。
私は十万という大金に一瞬目が眩みながらも、首を横に振った。
「それだけお金が沸いてくるんだったら、どこにでも住めるでしょ?」
「住めない」
「どうしてよ」
理由が分からない、と問い詰めれば、彼は嫌な顔をする。聞かれたくはないことなのは分かったけれど、私が納得しない。
お金だけ入れられても、理由が無いんじゃ住まわせるわけにはいかない…て、住まわせる前提で言ってるわけじゃないから。
無断で開けたビールをぐいっと煽り、口を手の甲で拭った彼は重たそうに口を開く。
「……追い出された」
「え?」
「追い出されたんだよ。オンナに」
「はあ?」
私のこの感想は正しいに決まっている。
どうして次の渡り歩く先が、私の家になるんだろうか。
十万も出す余裕があるなら、カプセルホテルにでも住みながら、新しい子でも探せば良いのに。
彼くらいの容姿と頭を持っていたら、寄ってくる女の子は山程いるに違いない。
「だからセンパイに拾って貰おうと思って」
あっという間に空になってしまったビールの缶を壁際のゴミ箱に向けて投げる。綺麗な軌道を描いて、カシャンと音をたてて入った。
それに目を奪われた隙に、彼は一人用のソファに身を投げ出す。
次から次へと行動が読めずに戸惑いながらも、抗議をする。
「私の家はホテルじゃないのよ!」
「知ってる」
「…………………」
一言で終わった抗議に、彼に軽く御されてしまった気分になる。五歳という年齢差なんて有って無いようなものだと実感した。
完全に寛ぎ始めた彼に呆れながらも、どこかで諦めかけている自分がいる。
「センパイ、食いモンない?腹減った」
毎月購入しているファッション雑誌を手に取った彼は、パラパラとめくりながら言う。
私の家なのに、何故か私の方が居てはいけない気分になってきた。
そして何故か、作り置きしておいたキンピラと明日の朝ごはんのポテトサラダを差し出す私。
一体なにをしているのだろうか。
情けない気分になりながらも、彼に逆らえない私がいる。
彼は何者なんだろう。不遜な態度を崩さないのに、嫌な気はそんなにしない。そんな間にも、礼儀正しく両手を併せて頂きますと言って、私が出したキンピラを突く。そして、彼は一言目に美味いと言う。
悪い気はしなかった。
サラダを誉めずに、私の作ったものを誉めてくれた彼に。
大概の人は私の料理をマズイと言う。見た目と中身が一致しないから、余計にまずく感じるらしい。
自分で食べても別にまずいとは感じたことがないから、どれだけ下手なのかは計り知れないけれども。
「ほ、ホント!?」
「うん、美味いよ」
手を休めず、キンピラを口に運ぶ彼の真横に座り込み、思わず凝視してしまう。
今まで口では美味しいと言いながら箸を置いてしまう人も見て来た。だからか、このようにして食べてくれる彼に喜びを感じる。
だけど、おだてられて喜んでちゃ駄目だ。
このまま彼を家に泊めてしまいそうな自分に、一生懸命歯止めをかける。
「センパイ、料理上手いね。いい嫁になるよ」
「お、おだてても泊めないから!」
「えー…」
舌打ちをして、彼は憎らしげな顔をする。
「余計に泊めたくない」
「センパイ!?何それ!」
だって可愛くないから。
言ったら、彼は男が可愛くても仕方が無いと憤慨した。よく聞く常套句だけど、彼が言うと何だか違った響きがする。
それでもキンピラを食べる手は止まらない。
無理をしている感もないし、不美味いとは思っていないようだ。
そんな姿を見ていると、何だか住まう家がないことへの同情心が芽生えてくる。だが、油断してはならない。
泊めてしまったら、それこそ後は野となれ山となれという状況だ。
特に私はそういう展開に弱い。
流されて生きている方が楽なせいか、一度流されたらその流れに逆らうことはない。
だって面倒だから。
そんな自己分析が出来るからこそ、気をつけなければならないのだ。
取り敢えず、咳払いをして気を取り直す。
「みかみくん、カプセルホテルに」
「行かない。俺、センパイの家に泊まりたい」
「……………」
「なあ、センパイ。泊めて」
この時、意地でも追い出せば良かったのだが、あろうことか私は自ら招いたのだ。その悲劇を。
「今日だけよ…」
「やった!サンキュ!センパイっ」
私は、その喜び方に悪い気はしなかったのだ。
彼に対して好感を持つのであれば、後にも先にもそこが一番だと思った。
ジュンアイシイク −アルコールカプリツィオ−
この段階で、ヒロインの名前を三上は知りません。だって、突然のお宅訪問だから。