我が家は使用人一家だったのだ。
第一次世界大戦前に、火事だか何だかで家を失った時に、暖かく迎え入れてくれたのが将大さんの先祖。
それから昭和半ばまでずっと仕えていた。
でも父さんが子供の時に、将大さんの家は斜めに傾いて使用人を全て解雇したけれど、それがなければずっと仕えていたに違いない。
そんなことがあっても、私の家は拾ってもらった恩だと言って交流を深めてきた。そうして、私の代になると幼馴染みとして育ってきたのである。
けれど、まだ迎え入れてくれた恩返しを出来てないという理由から、守り続けていることがあった。
それが『周防家を最優先』すること。
なにが起きても、周防の人が言うことは絶対。
古風で馬鹿らしいとは思うけど、そうは言いにくい環境で育てられているし。当たり前だと私の中でも認識されている。
私が将大さんの誘いを断らなかった理由には、少なからずともそれが含まれているけど。
それ以外にあるならば、将大さんと私は恋人同士というやつ。
これは周防の言葉は絶対だから付き合ってるんじゃなくて、私も好きだから。…好き、だから。
「自信もって言えないのが後ろめたいなあ…」
思わず独り言を呟く。
今までは好きだと主張できたのに、三上君が現れてから凄く気持ちが不安定。
全ての元凶は彼だったのか。
つい深い溜息を吐いてしまう。すると、隣の席の先輩が眉を潜めながら私の方を向いた。
「どーした、」
「あっ…やー…なんでも…ないです」
「そ?不安事あるなら、俺に言いなさいな」
「…ありがとうございます」
仕事場で考えごとをするのは止めよう…。どこでポロっと今の現状を漏らしてしまうか分からない。
愛想笑いを浮かべながら、隣の席の先輩…風祭さんに何でもないと念押しをする。
私が入社して半年しか経たないけれど、気付けば風祭さんは飲み仲間だった。それが更に発展して、今や昼食も一緒に摂る仲。
飲みと昼食は案外別物で、配属された先で飲み会、同期と昼食という感じが会社の常らしい。なのに、何故か風祭さんと意気投合してしまったのだ。
なにが理由だったかは覚えていないけど。
でも、風祭さんぐらいに交友関係が広いのなら、わざわざ私なんかと一緒にいなくても良いのに…と思うときがある。
そんなの、なんて聞けばいいか分からないから、尋ねてないけれども。
「本当にどうしようもなくなったら、俺に言うように。いいね?」
「はあい」
心配してくれるのは、とても嬉しい。
弟さんがいるせいか、かなりお兄さんという感じがする。頼り甲斐があって、そう言われると安心してしまう。
ほんのりと暖かい気持ちになりながら、私は仕事へと向き直る。
だけど風祭さんは、ああ。と短く言うと、体ごと私の方に向く。仕事を始めようとした手が止まる。
「そうそう、」
「何ですか」
「これ、上げて」
どさり、と両手で机の上に置かれた紙の束を見て泣きたくなる。
なんであなたはこんなに溜め込んでるんですか。
というより、どこから取り出してきたんですか。机の上は、綺麗とは言い難いけれど、こんな紙束は無かったと思います。
パラパラと紙束を数枚めくれば、日付が異常なことに気付いた。
「……まだ上げてなかったんですか!?」
「やろうやろうと思ってたけど、月末でも良かったから。ついつい」
「しかも、先月分も溜めてたんですかっ!決算迫ってるんですよ!」
私のいる部所は庶務。いわば、お金関係全般を担っている。
更にその中で、お客様が商品購入後の入金を専用端末に計上する仕事がある。上げる、と言うのは計上すること。会社に入ってから始めて知った言葉だった。
私や風祭さんの仕事は、主にソレ。
因みにうちでは、その仕事を「上げ算担」(あげざんたん)と呼んでいる。(計上する担当って意味だと思う…多分)略されて「上げ担」とか、意味が分からないけど「上様(あげさま)」とか言われている。
その上げ担の私たちが、わざわざ手入力で計上するのは、ダブルチェックのため。私たち庶務が上げた後に課長とか上の人が更にチェックをする管理システムだったはず。
で、風祭さんは毎日庶務の入金担当から回ってくる明細を、溜めに溜め込んでいた。
週間少年誌二冊分くらいは優にある。
「俺も半分はするから」
更にどさり、と同じような分量を出してくる。
「…なにがあったんですか」
「最近、ネット注文始めただろう?それの分が一週間でこんなに!」
素敵だよね!と投げやりに風祭さんは言う。
確かに、走り出しは好調って朝礼とか社内ニュースで回ってるけど。だったら溜めないで欲しかった…。
風祭さんのこの調子は毎度だから、もう何も言わないようにしてるけど。
「でも、これは明らかに先月分ですよね」
「………机の奥から出てきた」
まだ決算月じゃなかったから良かったけど、これはあんまりだ。けど今更、風祭さんを責めても仕方がない。
私は深い溜息を吐いてから、紙の束を持ち上げた。
幸い、私が上げなければならない分は一時間ほど頑張れば出来る。
「やります。でも、その半分は自分でやって下さいね」
「このお礼は酒代で返すよ、」
女泣かせと言われる風祭さんの、とろけるような笑みを私に見せる。
馴れとは怖いもので、これにはすっかり馴れてしまったのでサラリと受け流す。あまり期待せずに待ってますと言い返せば、手厳しいと笑われた。
そう、こういう感じが私の日常で全てだったはず。
会社で風祭さんと話して、帰ってから将大さんにメールをして。それを毎日繰り返すだけで、幸せだったはずなのに。
あんなに刺激的な変化は、私には強すぎる。
三上亮という存在は強烈な麻薬みたいなものだと、再認識させられてしまう。
この後パソコンに向かい合いながら、心ここに有らずという状況で一日を過ごしてしまったのだった。不毛というか末期だ…。
「ー!」
「お疲れ様です」
気付いた時には業務を終えていて、定刻きっちりに出てきた。風祭さんが一生懸命に私を引き止めようとしていたみたいだけど、それを無視して会社を出た。
将大さんに迎えに来てもらうんだから、あまり待たせ過ぎても悪い。いや、待たせちゃいけないんだ。
風祭さんの仕事は残っていたら、明日手伝ってあげよう。多分、私が無視をした時点で既に放棄してるに違いないから。
まだ半年だけど、風祭さんの行動パターンが読めてきた。
そういう訳で、時間通りに出て来た私は、すぐに将大さんに連絡をしたのだった。
「ごめんな、待たせて!」
「いえ、迎えに来てくれるだけで嬉しいです」
「どういたしまして」
にっこりと微笑む将大さん。その笑顔から、本当に四捨五入で三十路なんて窺えない。
いつもは、この表情一つで幸せな気分になれたのに、何故だかそんな感じがしなくなっている。なんというか、逆に落ち着かないのだ。
「どした、?」
「ううん。久し振りに会えて嬉しいなって」
「俺も!最近、仕事仕事でに連絡できなかったから、こうやって会えてすっげー嬉しい!」
頷いて返事はしたけれど、前みたいな喜びは感じない。
本当に、どうして?
でも将大さんは気付かない。きっと私に会えたことを本当に喜んでくれているみたいだから。
そんな彼を悲しませたくなくて、私は懸命に笑顔を作る。前みたいに、本心から笑えない。
余り器用じゃないから、引き攣(つ)ってないかと心配をしてしまう。
「あ、俺さ、と行こうと思ってた店を予約してあんだ。乗って?」
手慣れたように、助手席をさっと開ける。
これは将大さんと付き合い始めた頃から、当たり前のようにしてくれていたこと。
前に会ったとき、こうやって扉を開けてくれる仕種の一つも愛しくて嬉しくて、舞い上がっていたはずなのに。
「………………変だ」
自分が。
何だか今までの自分がおかしいのか、現在の自分がおかしいのかは分からないけれど、とにかく変。
ぽつりと呟いた言葉に、将大さんは首を傾げた。
「どした?」
「なんでもないですよ」
首を左右に振る。
「ねえ、将大さん」
ハンドルを握り、アクセルを軽く踏んで車を発進させる。このゆっくりな感じが心地良い、けど。
所詮はそれだけ。
こうやっている瞬間にさえも愛しさを感じていたはずなのに。
自分がおかしい。
「なに?」
「………呼んでみただけです」
何かを言いたくて呼んだはずが、伝えたいことが言葉にならなかった。
もどかしい。もどかしい。気が触れてしまいそう。
「変な」
そう呟く将大さんの声は優しかった。
暫く沈黙が続く。なにを言っていいか分からなくて、流れる景色を見つめる。
こんな瞬間も幸せだったんじゃなかった?
色とりどりの光が綺麗はずなのに、色褪せて見えてくる。なにが私をそうさせるの?
なにかに堪えられなくなってきた私は思わず目を閉じた。すると、突然に将大さんが「あのさ」と呟く。
「あのさ、俺にはの考えてることが分からないけど、遠慮せずに言って」
「………将大さん…」
「俺、のこともっと知りたいから。ね?」
「……はい」
貴方はこんなにも暖かくて優しいのに。私はどうして貴方を愛しく思えなくなったんだろう。
この時の私は知らなかった。
私の心が将大さん以外に侵食され始めていたことを。
あれから将大さんと食事をして、少しばかり彼の趣味であるドライブに付き合って別れた。
去り際のキスは、なんだか変な気分になる。今までとは全く違う感じに、嫌気がさす。
中々に良い物件の賃貸マンションの階段を昇り、鍵穴に鍵を差し込みドアノブを回した。
ただいま、と玄関を開けながら言う。一人暮らしの時は言うことさえもなかった言葉。
でも決して悪い気分はしない。
誰が居ようと居なかろうとも、この言葉はどこか心地良い。そして、おかえりという言葉も添えられると、より疲れを癒してくれる気がする。
だけど、今日は違った。
部屋の電気が付いておらず、かすかな月光で部屋の中が照らされているだけ。
三上君は帰って来ていないのかと思い、少し残念な気分になる。その残念だと思った自分の気持ちに気付き、思わず頭を左右に振る。
駄目だ!駄目だ!彼がいることを当たり前と捉えちゃ駄目!彼は居候。断りもなく居着いた居候なんだから。
必死に否定をしながら、ヒールを脱ぎ部屋へと入る。
「……おかえり」
「きゃあッ!」
電気を点けようとスイッチに手を延ばした瞬間に聞こえて来た声。
それは三上君の声で、どこか安心しながらも驚いてしまう。
「で、電気も点けないでなにしてるのよ?」
少しバクバクと震える胸を押さえながら、声をかけた。よく見れば、いつの間にか買ってきていた彼専用のソファに座っている。
ただ何もせず、荷物も全て床に放り出したまま腰掛けていた。
「別に。それより、センパイ」
「なに?」
「今日は楽しかった?」
いきなり何を言い出すのだろうか。
「なに、言って…」
「カレシとのデートは楽しかった?」
「………三上君?」
私が名前を呼べば、彼は立ち上がった。ゆっくりゆっくりと歩みながら、私の前までやってくる。
その距離はキスが出来そうなくらいに近い。
明らかな身長差なので私は見上げる。すると、いつもは余裕のある意地悪そうな瞳が、どことなく切羽詰まったかのように見えた。
一体なんなのか。
確かに、将大さんと会っていたし、それを三上君に見られていたとしても彼には微塵も関係がない。
責められるような口調で問われても、どうすることもできない。
「関係ないでしょ」
そう言うと、勢い良く両肩を掴まれる。痛い。
「あるんだよ!!」
そして怒鳴られる。
突然で、どうしていいかも分からなくて思わず身を硬くしてしまう。男の人の迫力は女のものとは桁違いだと、始めて知った。
将大さんは怒鳴らない。父は静かに怒る人だ。今まで周囲にいた人でさえ、こんなに空気を震わせるような怒りは見たことがない。
怖い。怖いのだ。
怒っている理由も分からないし、どうしていいかも分からない。
「…俺には……あるんだよ…」
怒っていたかと思えば、瞳に困惑した色を宿らせる。私の肩を掴んでいた手は、力が抜け添えるだけのように宛てられた。
「三上君?」
「……………センパイ」
「…うん」
弱々しく名前を呼ばれて、返事をすることしかできない。
薄暗い、月光のみが照らす部屋で私たちは見つめ合う。
「俺、が他の男と一緒にいるとこなんて見たくねぇ…。狂いそうになる…」
……三上君?
演技にしては出来過ぎで、本心にしては何となく浮遊感のある言葉。どこに本音が込められているのか分からない。
甘い言葉を幾ら言われても、切ない気持ちを吐露されても、何故だか真に受けられないのだ。
三上君の言葉は、どこか本心が無い。
彼が本心だと幾ら言っても、信じられない。誠実さが足りない。
そんな風に思う自分を軽蔑しながらも、辛そうに眉を潜める彼を見つめる。
「他の男と喋るななんて言わない!お願いだから…センパイ、少しでも俺を見ろよ…」
「………………三上君…」
私は言葉に詰まって何も言えなかった。
ジュンアイシイク −テュトワイエソレイユ−
うちでは初めて功兄ですが、キャラが掴みきれません。