むかしむかし、ずっとむかし。
 そこには犬がいました。飼い主に忠実で、絶対に逆らわない犬がいました。
 犬は飼い主が大好きでした。飼い主は態度にも言葉にもしませんでしたが、犬を憎からず思っていました。
 飼い主と犬は毎日平穏に過ごしていました。
 しかしある時、犬は大怪我をしました。
 飼い主に仇なす輩を退治しようと果敢に立ち向かったのですが、ぴすとるで撃たれてしまったのです。
 犬の怪我は医者も匙を投げるような大きな怪我でした。医者には、もう治らないと言われ、犬も自分の命の燈が残り少ないことに気付いたので諦めていました。
 しかし犬を、態度と言葉には表さずに大切に可愛がっていた飼い主は、献身的に犬の看病をしました。
 なんと、犬は飼い主のお陰かみるみるうちに傷が治り、庭を走り回るまでに回復したのです。
 そして飼い主は言いました。

―もう危ないことはしてはいけない―

 犬はもっと飼い主のことが好きになりましたが、その言葉に傷ついてしまいました。
 犬にとって飼い主は唯一の人。そして自分の命さえも差し出せる人。飼い主を守って死ねるなら本望なのです。
 なのにそれを咎められるとは思ってはいませんでした。
 深く傷ついた犬は、自分の存在が飼い主にとって不要ではないかと思いました。
 言葉にも態度にも示さなかった飼い主の突然の変化に、心が付いていけなかったのです。

 ある日、飼い主と傷ついた犬に変化が訪れました。
 飼い主の元に花嫁がやってきたのです。まるで絵物語に出てくる異国の人形のような人でした。色白で銀の髪を持つ花嫁は犬から見ても、たいそう美しい人だったのです。
 犬は初めてみたその人を好きになりました。犬の自分にも優しくて大切にしてくれたからです。飼い主に近寄ってくる娘とは違い、本心から優しく接してくれるのです。
 この時、犬は飼い主の元を去ろうと決意しました。
 美しい花嫁は、きっと飼い主を自分以上に幸せにしてくれるだろうと、そう思ったからです。
 決意した夜に犬は飼い主の元を去りました。
 犬のことを誰も知らない土地で犬は野良となりました。さ迷った土地では野良に優しくしてくれる人はいませんでしたが、犬は飼い主とその花嫁に貰った愛情だけがあれば十分でした。
 どれくらいそうしていたでしょうか。
 一年、一ヶ月、十年、時間の感覚は犬にはありません。飼い主と過ごした時間が、犬にとっての時間です。
 ただ、犬の記憶の中で思い出だけが色褪せなければ良かったのです。
 けれど記憶というのは曖昧で、いつまでも同じ思いだけを抱けるものでもありませんでした。日々、薄れていく記憶に恐怖しました。

―飼い犬も放し飼いすれば、ただの野良か―

 しかし、ふと頭上から声がしたのです。
 犬のその両の目に光が差し込みました。ずっと、ずっと焦がれていたのに、自ら断ち切った飼い主がそこにいました。
 どうして、と問おうにも声が出ません。なぜなら、自分は犬だからです。
 飼い主に対しての声を持ち合わせていませんでした。
 自分の記憶の中の飼い主よりは少し年老いてはいましたが、犬は見間違うことはありません。あれ程犬である自分を大切にしてくれた人なのですから。
 思わず駆け寄りました。
 足に縋りつけば、飼い主は優しく抱擁してくれたのです。
 自ら手放した温もりでしたが、今はこの温もりを感じていたいと思いました。

 その後、犬は飼い主の元に戻りました。
 自分が好きだった飼い主の花嫁もあの頃よりほんの少し年を取りましたが、変わらずに喜んで迎え入れてくれました。
 その優しさに犬は声を上げて泣いてしまいます。
 自分から手放したのに、もう一度手にすることがないと思っていたのに、なのに飼い主はただの犬である自分を迎えてくれたのです。
 花嫁は犬を抱きしめました。慰めるように、優しく暖かい手で抱きしめてくれました。
 飼い主もそんな花嫁と犬を包むように抱きしめてくれました。

―私たちにはあなたがいないと駄目なの―

 花嫁は微笑んで言いました。
 犬にはそれだけで十分でした。これ以上を望むことは無いと思ったのですが、そこに飼い主が犬に初めて微笑みかけました。

―お前が帰る場所はここ以外にどこがあるというのだ―

 飼い主は犬に居場所を与えました。
 決して居場所が無いわけではありませんでした。しかし、言葉にして居場所を与えられたのは初めてで、犬はもっと泣いてしまいました。
 この時、犬はこの人たちを守れるのならば、この魂が砕け散るまで命を賭しても良いと思いました。
 大怪我をした時に飼い主には咎められましたが、どうしてもそうしたいと心から思ったのでした。
 犬はずっとこの人の犬でありたいと願ったのです。

こうして、今でも続く飼い主の家系は犬によって守られているのです。

海馬の犬

 2007.11.22
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