この日、彼は似つかわしくない場所に立っていた。
 目の前にあるのは扉という名前の薄い板でしかない。そして、なによりも独特のカビと土の混じった不愉快な匂いがする。
 本来ならば、用事があったとしても自らこの様な場所に来たいとは思わない。
 ましてや、特殊な用事でも無い限りはそう簡単には自ら足を運ぶこともしない。彼は待つのが常なのである。
 ふと視線をその扉の左上を見る。目的としているものがそこにある表札が掛けられている。
 自然とドアノブに手が伸びたが、すぐに手を引く。
 そして徐(おもむろ)にその足で扉を突き破った。
 元々が幾ら薄いとはいえ、常人の力では早々に破壊できるものでもない。しかし、彼にすればこの程度は造作も無い。
 激しい衝撃音と人の声が聞こえる。

「ンだぁ!?」

 驚きとも不快とも取れる色々と入り混じった声が聞こえてきた。
 扉は蝶番(ちょうつがい)の部分のネジが飛び、歪(いびつ)に曲がっている。中に居た人物は訝しげに扉に近寄って、とうとう驚きの声を上げた。

「て、テメェは…!」

 彼を見て驚いた人物は一歩後退する。

「貴様が剛三郎の犬か」
「………だったら、どうだって言うんだ」
「聞きたいことがある。……城之内」

 呼ばれた男…城之内は、彼に向かって即座に拒否をしようとした。しかし、その威圧と無言で踏みつけた扉が拉(ひしゃ)げた姿を見て息を呑んだ。
 ここで断ればどうなるかなんて明白だった。
 危険を感じ、渋々といった様子で彼を中へと招き入れる。

海馬の犬

 そこは童実野町の中でも住宅が立ち並ぶ場所にあった。
 一軒家の多い町でも一際異質にあるそこに住む者は決して多いとは言えない。殆どが空室に近い状態の団地だった。
 そんな状態で需要があるのかと問いたい気もしないでもないが、このように住民がいるのだから受容はあるのだろう。
 その団地の三〇一号室に住む城之内家は、いつも以上に不穏な空気が漂っている。
 毎月決まった時期に借金の取り立ても有り、殆ど居ない近隣住民の間でも近寄りたくない場所として有名でもあった。決まって息子の克也が取立てを相手にし、きちんと金額を納めているので今のところは表立った問題も発生していない。
 その姿を知っているので、これといって住民も何も言わないでいた。
 少なからずとも、克也の明るい性格と勤労学生であるということから、同情する方が多かった。しかし、家には飲んだ暮れの男もいるので誰も近寄りたがらないが。
 そうやって借金も少しずつ返済している城之内家だが、こんなにも不穏な空気が渦巻いているということは未だかつて無かった。
 扉は破壊され、部屋の中から煙草と酒の匂いが漂ってくる。
 住民は様子を窺っては、足早にそこから去っていく。決して触れてはならない、とその空気から嫌でも察してしまう。
 今、まさにそこの住民の城之内は呼吸することさえ苦しい状況に追いやられていた。

「……天下のKCのシャチョー様がなんの用事だよ」

 克也なら今は仕事に行ってるからいねえぞ、と噛み付くように言う。これを眺めていたKC…海馬コーポレーションの社長である海馬瀬人はただ、無表情で男を見た。
 城之内…父の方である男は自分の家であるのにも関わらず、非常に居心地が悪い思いをする。
 こんな威圧は過去何度だって受けていたけれど、あの時と今では立場が違うのだ。

「貴様は剛三郎の犬、それは相違ないな」
「よ、呼び捨てにすんじゃねえよ!テメェが呼び捨てに出来るようなお方じゃねえ!」
「答えろ。相違ない、な」

 決められた返答以外は受け付けないと、長い前髪から鋭い視線を遣る。有無を言わせないその態度に城之内はどうしようもなくなる。
 暫くの無言の後、城之内は返事をせず頷くだけで肯定の意味を示す。
 それを見た海馬は、またも質問を投げかけた。

「ならば何故、犬を寄越さなかった」
「なに、言ってんだよ。なんでテメェなんかに渡さねーといけねぇんだ」

 こんな威圧を受けながらでもまだ噛み付こうとするのは、さすが城之内といったところかもしれない。強い相手でも関係なく噛み付く。その後がどうなるかなんて分かりきっていても、だ。
 父の気質はそのまま息子に継がれていると言っても間違いない。
 同じだからこそ親子仲は最悪に近いのだろうけれど。
 海馬はうっすらと城之内の姿に息子の方を重ね、口角を持ち上げるがすぐに無表情に戻る。

「犬、それが契約ではなかったのか」
「………テメェ、どこまで知ってやがんだ」

 城之内の表情からさっと色が抜ける。
 きょどきょどとして一度たりとも目を合わせなかった男が初めて海馬を見た。その男の瞳の色は克也よりも少しばかり色が濃い。それでも飴色の瞳は父も兄妹も、似たような色であった。
 まるで生花の薔薇が時間と共に色が落ちていったような色。それでも尚、咲こうとする力強い色であるということだけは、親子と言ってもいい。
 性格も瞳も面白いほどに一緒であった。

「犬の全てだ」
「……だ、だったら、オレがテメェんとこから去った理由だって知ってンだろうが!」
「細部までは知らぬ」
「それじゃ全部知ってるっつわねぇんだよ!」

 城之内の言うことは尤もだった。勿論、それを知りたいがために海馬とて単身でこんな場所まで足を運んだのだ。
 用が無ければ近寄るはずも無い城之内家に。
 男は怒鳴ったことで、息を荒げている。ずっと飲んでいたのか、呼吸からも酒の匂いが漂う。
 不快だ。海馬は声に出さず眉を潜め、そう思った。
 このような家に住んでいて、よく酒と煙草の匂いを纏わり付かせなかったものだ、と克也のことを思う。オードトワレを付けている訳でもないし、消臭剤を買う金さえも惜しみそうな城之内克也にしては、匂いの一切しない彼が不思議にさえ思える。
 しかし、今はそこに意識を割いている場合ではない。
 この世で唯一、海馬が知りたいことを知っている人物が目の前の男だ。その男が口を割らなければ、一生分からずじまいである。
 金で買収でもなんでも出来たが、今日の海馬はそういうことをする気分ではなかった。
 寧ろそんな買収で口を割られた方が不愉快だ。

「だから、貴様の知っていることを全て教えろ」
「嫌だね!テメェは海馬の家のモンじゃねえ!」

 男は更に声を荒げる。

「幾ら養子だっつっても、テメェは剛三郎様の実子じゃねえ!犬は…犬は海馬の犬なんだよ!テメェの犬なんざ、いねぇ…ッ!」

 城之内は椅子から転げ落ちた。
 したたかに背中を打ち少し呻くが、痛みよりも先に自分を見下ろした男を見る。

「………今、なんと言った」
「…な、んどでも言ってやらあ!テメェは剛三郎様のじ…」

 鈍い音が聞こえる。自分の右の方からしたが、それどころではない。
 海馬は冷ややかに城之内を見下ろし、男の右肩を踏みつける。痛みには慣れている城之内と言えど、突然の暴行には耐える術を持っていない。
 数度踏みつけられ、嫌な音がしたのと同時に裂く様な痛みが走った。全身の神経がそこだけに集約されたかのように、その痛み以外に感じない。血管が動き、手足の先から血が無くなったかのように一気に冷える。
 動かすことさえ出来ない。
 呼吸さえもしにくいような錯覚に捕らわれる。
 目の前が白くなる。ただ、この痛みで声が出ない。
 海馬は男の右肩に足を置いたまま、憎しみの篭った瞳で見下ろす。

「貴様、なお剛三郎の犬だと言うのか」
「あ、あ、あ、あ」

 その痛みのせいで上手く声が出せないでいる。
 城之内のそんな姿が酷く醜いものに見えた海馬は、更にそこを力強く踏みつける。
 扉を蹴り壊すような男の力は、城之内にとって意識を失うほどの痛みだった。それでも意識をぎりぎり繋げていた。

「腐っても犬、か」
「ご…ご、ざぶろ…さ…」

 結局、城之内は意識を失った。最後、何かを呟いていたが、それは海馬にとってもうどうでもいいことだった。
 どれだけ問い詰めても吐かない。それだけは分かった。
 ずっと男の右肩に乗せたままだった足をどけ、スーツの内ポケットから携帯を取り出す。
 青眼の白龍を意識した色合いの携帯を細く長い指で軽く弄った後、そのまま仕舞い城之内の家を後にする。
 海馬は言い知れない苛立ちと言葉に出来ない感情を抱く自分に、ふと笑みが零れた。
 そのすぐ後に数人の医者と黒服が城之内家にやってきて、男を担架に乗せたのを近隣住民は見ていた。

 2007.11.26
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