突然ここにいるはずのない男が目の前に現れ、何事かと思った。男は何も言わず、当たり前のように右手を差し出す。
 この手を取れ、という意味であろうが自分には理解できない。いや、したいとも思わない。
 顔を突き合わせば犬猿の仲で、どちらかが必ず引き金を引いては口論をする。一方的に負けはするけれども、きっと拳であれば口論ほどの黒星は付かないだろう。
 別に殴り合いをしたいわけではない。ただ、日頃の雪辱をしたいだけだ。
 しかし男は自分とは全く気持ちが違うらしい。応戦準備をしても、彼は一向に態勢を整えない。少し煽れば自分よりは控えめであるが、すぐに噛み付くこの男が何もしないなんて。
 おかしい、そう思わずにはいられなかった。
 しかし、そんな考えを巡らせて意識を飛ばしていると、突然に手首をぎゅっと掴まれる。
 肉付きが薄いはずなのに、押さえつけられて男の指の間に肉が盛り上がる。自分の力がどれ程あるかなんて考えていないに違いない。
 痛みに思わず声を上げてしまったが、それさえも構わないといった調子でぐいぐいと引っ張られていく。

「オレ、バイト中っ…!」
「黙れ」

 ぎろりと睨まれる。
 目だけで人が殺せそうな視線とはこんなものかもしれない、と様々な戦歴を持つ彼でさえ恐ろしく感じた。
 しかも抗議の声を上げただけでこれだ。もし抵抗なんてしたら、どうなるのだろうか。
 男がこうなっては自分は従うしかないのだ。どの道、選択肢は与えられていないのだから。

海馬の犬

 城之内克也が海馬家に監禁されたのは一週間前のことであった。
 理由を聞いても、彼は聞く耳を持っていないらしく全て無視されてしまい、失敗に終わっていた。
 どんな訳があったとしても、答えてくれなければ城之内には分かるはずもない。

「…いてえ…」

 むくり、と起き上がり城之内は頭を押さえる。ずきずきする。しかも大病どころか風邪さえも患うことのない健康体を自負していたせいか、突然の頭痛には免疫がなかった。
 ここに来た初日に服を剥ぎ取られ、今日まで一切の着衣を与えられていないから風邪かと思ったが、空調の整ったここでは風邪も患いにくい。思い出されることは、ただ一つ。
 思い出すだけでも気分が悪くなる。
 けれど、幾ら思考を止めても思い出してしまい、城之内は吐き気を覚える。いや、吐き気だけで済めばいい。抱いた恐怖のせいで、震えが止まらなくなるときもある。
 とんでもないものを海馬に与えられてしまった。
 城之内は感情が制御しきれず、軋む体を無理矢理に動かし枕を壁に投げ付けた。
 海馬邸の上等な羽毛枕は鈍い音を立てて床に落ちる。
 真っ白いそれが城之内は気に入らなかった。いや、部屋一面の白さに嫌悪する。昔、映画か何かで見たサナトリウムのような部屋は、全てが海馬を象徴するようで気分が悪い。
 しかも、家具はベッド以外に存在しない。広い部屋の中央に居座ったキングサイズのベッドが、まるで海馬のようだ。
 更に部屋には窓が無い。ベッドだけが唯一だった。
 誰も寄せ付けない圧倒的な存在。彼がいるだけで、その世界には彼以外がいないような、そんな。城之内には部屋そのものが海馬に見えた。
 だから余計に気分が悪い。

「…海馬なんて消えちまえ」

 ぽつりと漏らした言葉は、今までにないほどの彼への嫌悪。
 言葉では言い表わせない。音にすることが難しい複雑な嫌悪。
 単純な嫌いではない。城之内にとってこの一週間に与えられた苦痛を思えば、尤もなことだった。
 一週間前のあの日、城之内はバイト中であるにも関わらず海馬に無理矢理に連れ出された。なにを言っても聞かず、あろうことか諦めた城之内に手刀を浴びせ気を失わされた。
 城之内にすれば何もかもが晴天の霹靂。
 気を失った男をどう運んだかは知らないが、気付いた時には既にこの白い部屋にいたのだ。
 そして抵抗する間もなく海馬は、城之内を嬲(なぶ)った。言葉のまま、城之内を心身共に犯した。
 引き裂かれるような痛みと、全く快楽が伴わない行為。幾ら即物的に触れられようが、熱の籠もった個所を弄(もてあそ)ばれようが、そこに快感はない。
 心が付いてこない。
 幾ら止めてくれと懇願しても泣き叫ぼうと、理由を聞いて答えてくれないことと同じように無視をされる。それどころか、余計に行為を煽っていた。
 この一週間、海馬は毎夜やって来ては同じように行為を繰り返した。

「くそっ…腰が…」

 嫌がらせにしては度が過ぎている。万が一、好意から来るものだとすれば手順を誤っている。例え好意であっても、今の城之内には拒絶という二文字しかない。
 痛みと力が入らない腰に手を宛て、這うようにシーツを抜き取った。
 朝方まで嬲られて乾燥もほどほどな吐精したものと、汗や涙なんかの湿りが素肌に触れて不快だ。悔しいが変なところが律儀な城之内は、それを軽く整え床に置く。
 しかし動いた瞬間に、後孔からどろりとしたものが流れたのを感じ眉を潜める。
 いつだってそうだ。朝方まで気を失っても続けられる行為の後始末は一切無かった。放置した初日に腹を下したので、嫌々ながらに自らで始末をするしかない。
 床に置いたシーツをもう一度拾い上げ、枕元に置かれたティッシュペーパーを数枚取る。
 最悪だった。
 自分で始末をしなければならないことも、毎夜抵抗も虚しく犯されることも。
 ただ、ただ。
 城之内にとっての救いは、次の日を迎えるたびに海馬がいること。
 窓もなく、扉から漏れる光と薄明かりしか灯されていない部屋で、城之内が平常心でいられたのは海馬が毎日現われるからだ。
 行為こそ許せたものではないが、疲れ果てて目が覚めればまた海馬がやってくる。憎しみしか湧かないが、ここに誰かがいるという喜びは否定できない。

「………ちくしょう…どうしろってんだよ…!」

 嫌いだと思う。顔を見ることさえも辛い。なのに独りではないという安心感を与える海馬が憎い。
 城之内は複雑な自分の感情を持て余すしかなかった。
 その時、扉が激しく叩かれる音が響く。思わず驚き肩を揺らせ扉を見た。
 海馬なはずはない。いつも鍵を開けて入ってくる。
 だったら誰だというのか…。戦々恐々としていると、よく聞き及んだ声が聞こえてきた。

「城之内!城之内!いるんだろっ!」
「も…モクバっ!?」
「…っ、城之内!」

 軋む体に構わず、城之内は扉に駆け寄った。

 2007.12.09
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