盲目的にその人を信じたいと思う気持ちが悲鳴をあげていた。
絶対的な信頼を置き、そこには何人たりとも踏み入れることの出来ない領域があった。
幾ら非道なことをしても、結果的に彼を思ってのことだったので全てを否定できない。そして彼は更に信頼を寄せる。
それを日常的に繰り返し、幾重にもなった信頼は容易くは壊れない。
しかし、もし亀裂が入ったとしたら。
小さな亀裂でも些細な不振が加えられれば、じわりじわりと大きな罅(ひび)になっていく。後は決定打があれば、どんな信頼でも一気に崩壊する。
今、まさに彼はそういう状況だった。
「兄サマ…どうして……」
どうして弟の自分も信頼してくれないのか。
いつも一番に考えてくれるけれど、彼の気持ちはどこかに置き去りにしたまま。投げられたボールを返しても、受け取ってはくれなかった気がする。
自分を思ってのことだと思っていたのに、勘違いだったというのだろうか。
「…ごめん、ごめんな…」
今は同じ屋敷にいても会うことさえ許されなかった人を思い、涙を零す。
心はもっと悲鳴を上げた。
この日、海馬邸の執事はモクバに相談を持ちかけていた。
普段から優秀で主人のことを察する能力に長けた執事は困り果てていたのだ。些末なことは主人の耳に入れる必要もなく、執事が代理で全て片していた。しかし、自分ではどうしようもなくなったので、幼いながらにも兄よりは機転の利くモクバに頼った。
執事からの相談ごとは滅多に無いせいか、驚きながらも話に耳を傾ける。
そして言葉を失った。
兄が一週間前に気を失った城之内を連れ込んだらしいが、城之内の姿をそれっきり見ていないと。訝しんだ執事が海馬にそれとなく聞くと、ごく当たり前のように「犬を飼ったまでだ」と言って退けた。
確かに兄は城之内を犬扱いしている。最初こそは色々と呼び名を付けていたが、少し煽れば噛み付き吠え、餌を与えれば尻尾を振る姿はまさに犬。そう思った海馬は城之内を犬と呼ぶ。
モクバはそこに兄の親しみが込められていると思っていた。兄は好意を持つ者をどう扱うかを知らない。
不器用な親しみなんだと思っていた。
しかし、執事の話と自分の思い込みは一致する個所が見当たらない。下手な間違い探しのような歴然の差だ。
モクバは混乱する。
いつも人の斜め上を歩んでいても、養父がしたような行いだけは善(よ)しとしなかったのに。
兄にとって、城之内を屋敷に閉じ込めることが好意だとでもいうのか。いや、そんなはずはない。
頭の中でそれだけがぐるぐると回り続ける。
「…なあ、城之内はどの部屋にいるんだ」
考えれば考えるほど、余計に理解できなくなる。ならば動くべきだ。
誰の言葉だったかは記憶がない。たぶんきっと考えるよりも先に体が動いてしまう城之内の言葉だったかもしれない。
執事から数ある部屋の中の一室を教わり、短い礼を言った後に部屋を出た。
その部屋は滅多に近寄らない場所にある。モクバにとっても兄にとっても苦い思い出しかない場所にあった。
まだ養父が生きていた頃、庭が一望できるそこに執務部屋を構えていた。養父は取り分けそこを気に入っており、その部屋の隣に教育部屋を設けた。
教育と称した体罰が行われた部屋。
しかし城之内の捕われた場所はそこから養父の部屋を挟むようにしてある「開かず間」である。養父が雇っていた使用人も養父さえも口を閉ざして語らなかった。だから今でさえも何があるのか分からない。
そんな部屋に城之内がいた。
近寄ることも毛嫌いしていた兄が行った行為が信じられない。
部屋がそこしかないのなら話は別だが、使われていない客間が山程ある海馬邸ではおかしな話である。
足早に廊下を歩き、目的の部屋に向かう。
兄ほどではないが、モクバもまた嫌な思い出がある以上、その部屋に近付こうとすると思わず足が止まる。しかし今はそれどころではないと奮い立たせると、目的の部屋まで駆け抜けた。
その扉は仰々しい装飾で縁取られており、ノブに至っては成金趣味であった養父らしい華美な作りだ。機能美を愛する兄弟から見れば無意味な飾りは、ただ部屋の威圧感を出しているだけ。
扉の前で気後れしてしまう。けれどモクバは、気を引き締めて手を振り上げた。
「城之内!」
ドンドンと乱暴に叩く。
兄がこんな場所に閉じ込めたせいか、モクバは落ち着かない。
部屋の中に気配を感じる。その存在を確認するように、もう一度声を張り上げる。
「城之内!いるんだろ!」
「も…モクバっ!?」
くぐもった声が聞こえる。少し擦れているが、間違いなく探し人の声だ。
「…っ、城之内!」
ここに居た、という安堵に混じってピシリと罅(ひび)の入る音がした。
顔を歪める。
誰に聞こえるわけでもない軋みが響く。
兄への不信感。初めてではないが、これから先は抱くはずもないと思い込んでいたのに。
遊戯たちを殺そうとした時に自分に向けられた恐怖ではない。兄に限って、と思い込んでいた自分に裏切られたという痛みだ。
くらりと眩暈がしたが、倒れている場合ではない。
しっかりと両足を地につけ、扉を見据える。
「今、開けてやるからな!」
いつも携帯しているマスターキーを取り出して鍵穴に差し込む。しっかりと奥まで入れた後、鍵を回そうとしたが鈍い音が響いた。
鍵が合わない。幾ら開けようと藻掻いても鍵違いでは不可能だ。
ここを養父が使用していたのだから、当然といえば当然の結果。誰かに付け入られる隙さえも見せない警戒心で、常に自身しか信用していなかった。
執事も持つマスターキー如きで開く扉の先に、寝室や執務室を構えるはずがない。
もしかして兄も自分や執事が動くのを分かっていて、敢えてこの部屋にしたのか。自分でさえ考えたのならば、兄なら真っ先に考えるに違いない。
「…………」
「モクバ…?」
扉越しにどうしたのか、と尋ねる声が聞こえる。黙っていては不安を与えてしまう。
「なんでもないぜぃ!城之内、大丈夫か?」
「おう、だいじょーぶ!」
「そっか」
城之内は良くも悪くも分かりやすい。本人は隠し通すことが得意だと思っているみたいだが、これほどまでに下手なのも珍しい。
彼の性格を知っている者は、彼がそれを隠したいと分かるから合わせようとする。下手に心配しては、余計に城之内が気を揉み何も言わなくなる。
モクバもそれが分からないほど子供でもないので、気付かない振りをした。
「あのな」
「おう」
「鍵、特別なやつらしくてさ、持ってるやつじゃ開かないみたいなんだ。だからさ、取ってくるからもうちょっと待ってろな」
出来るだけ当たり前のように言う。
自分以外でこの屋敷を自由にできるのは兄しかいないので、鍵は間違いなく兄が持っている。それに何となく兄のことを口にしてはいけない気がしたのだ。
「さんきゅ、モクバ…」
いつもより遥かに頼りない城之内の声。いつもの彼を知っているからこそ、余計に罪悪感が押し寄せる。
城之内をこうさせたのは兄、そう思えばモクバの心は悲鳴を上げた。
兄サマ。
唇を動かす。音には乗せない。
それが今のモクバと海馬の距離だった。
2007.12.17