ワーカーホリックの彼が帰宅したのは深夜零時を回った頃だった。
 普段ならば二十二時には就寝をするように言いつけている弟が、彼の部屋を訪れたのが二時。住み込みの執事もメイドも寝付いている時間に、屋敷の主人たちは対峙していた。
 まだ仕事でもするつもりか、彼は執務机に仕事道具を広げている。
 そんな姿にも関わらず弟は彼に近付き、手を差し出した。
 意図が全く掴めない彼は、二度瞬きをする。兄ならば分かってくれると思っての無言だった少年は失望した。
 一度入った亀裂は、絆の固かった兄弟といえど修復が難しい。

「兄サマ、オレ知ってるんだぜぃ」

 何をだ、と聞き返す前に少年は彼を睨みつける。

「兄サマのしてること」

 昔の、今の彼になる前の状態ならば兄のしていることを肯定していたかもしれない。そう思いながら、兄を非難する。
 兄は余り変化のしない表情を歪ませた。どうやら、なにを言っているかは理解してくれたらしい。

「あの犬のことか」
「犬じゃない」

 犬などと呼んで欲しくなかった。特に今の兄には。
 真っ向から兄を否定した姿に目を見張る。

「鍵を渡して」

 弟は静かに手を差し出し、大きな瞳に兄を映した。

海馬の犬

 いつから弟はこれほどに成長したのだろうか。海馬は詰められているにも関わらず、違うことを考えていた。
 いつも自分の後を付いて、離れることをしなかった。
 五歳年下の弟を一度は突き放したものの、いかなる時も「兄弟」であった。仕事のパートナーでもなく、個人でもなく兄弟だった。
 常に兄と弟であり切れない絆と信頼があった兄弟。
 海馬はそう考えていた。しかし、いつから弟はこんなにも個性を持って、兄と対峙する勇気があったのだろうか。
 裏切られることを恐怖し兄である海馬に逆らわず、常に彼を最優先し何事にも同意する弟が。

「兄サマ!」

 反応を示さない姿に痺れを切らしたらしいモクバは声を張り上げる。変声期前の高めのトーンはどこか心地いい響きがする。
 聞こえている、と抑揚のない声で言えばモクバは表情を歪めた。
 今まででは考えられない表情をさせている弟。
 その背後にある壁時計が目に入った。ああ、こんな時間だったかと思い立ち上がる。

「……モクバ、話は明日だ」
「今でも出来る話だぜぃ!」
「もう遅い。明日にしろ」

 その言葉と同時に、部屋の中に控えていた磯野がモクバを促す。海馬が軽く目配せすれば、慇懃に頭を下げ扉の外に消えた。
 抵抗しようとしていたみたいだが、弟の力では磯野には適わない。
 海馬付きのシークレットサービスである磯野はモクバの言葉には一切耳を貸さなかった。きっと彼は職務忠実に朝までモクバを見張っているのだろう。
 それでいい。
 今の海馬は例えモクバであろうが、この衝動を止められないのだ。ならば邪魔は少ない方がいい。
 椅子から立ち上がり、備え付けの小さな冷蔵庫からケーキを取り出す。糖分を採るようにとのモクバの計らいから、毎日メイドが入れているらしく、日々様々な彩りを見せていた。
 ティーポットに紅茶を入れ、それとケーキを小さなトレイに乗せて部屋を出る。
 行き先はいつものところだ。
 誰もいない廊下を歩けば派手な扉が数枚立ち並ぶ。流石の海馬も少し顔を歪めるが、すぐに表情が戻る。海馬にとって過去は踏み潰してきたもの。だから、扉一枚如きに感情は揺さ振られたりはしない。
 三枚並ぶうちの一番手前にある扉の前に立ち、巧妙な細工がなされた鍵をはめる。錠の重苦しい音の後、ゆっくりと軋みながら開く。派手な細工を施したが故の重みで勝手に開くのだ。
 ぎぃ、と音を立て開けると、中央には巨大なベッド。窓もなにもない。
 幾ら見慣れたといっても倒錯的な部屋だ。
 その隅でシーツが丸まっている。その脇からちらちらと見える金糸が眩しい。
 海馬はそちらに足を向け、ベッドサイドに腰を下ろす。昨日は時間がなく清めてやらなかったせいか、見た目よりは軟らかな金糸の一部が固まっている。そこを持ち上げれば、固まった部分がぱきりと音を立てて剥がれた。
 持ってきたトレイをベッドヘッドに置き、再度立ち上がる。
 部屋を抜け鍵を掛け直し、手短な客間に入った。海馬邸は客間といえど常に使用が可能な状態である。そして各部屋には必要最低限のものが全て揃っていた。
 勝手知ったる海馬は浴室にあるタオルを湯で濡らし、またそれをあの部屋に持っていく。そのついでに替えのシーツもベッドから剥がし取るのも忘れない。
 軋む音が立てられるが、金糸の人は起きる気配がない。
 持ってきたシーツをベッドの片隅に置き、その被っているものを取れば寒かったのか体を揺らす。ここまで熟睡する姿を見るのは初めてかもしれなかった。ずっと眺めていたくもなるが、思い直し汚れているシーツを床に投げ捨てる。
 ゆっくりと湯で濡らしたタオルで清めていく。少し身じろぎはしたが、これでも目が覚める様子はないらしい。
 全身を隈無く(くまなく)拭き終え、さらりとした前髪を掻き上げた。

「………城之内…」

 いつになく柔らかな音と、切なげに寄せられる眉。海馬という人を知る者が見れば驚き声を失うかもしれないが、幸いここには眠る城之内以外はいない。
 髪を掻き上げたひやりとした海馬の手に、城之内は睫毛を振るわせた。そして、ぺろりと薄く開いた唇を舐める舌が扇情的に見えた。
 いつもは騒がしく、この屋敷に連れてきてからは暴言しか吐かなかった彼も、眠っていれば酷く愛らしい。悪い目付きも閉じてしまえば見えないように、幼く見える城之内も目を閉じていれば色香が漂う。
 海馬は静かに額に顔を寄せ口付けた。
 一度もキスを交わしたことのない唇にも触れるだけのものを落とす。

「……」

 酷く甘かった。
 このままどうにかしてしまいそうな気分になるが、自制心の欠片が残っていた海馬は思い留まり体ごと離す。その時に毎晩の情事の名残ともいえる痕が肌に付いていることに気付く。
 薄暗い部屋の中でも日に当たることが無く白い肌に残った痕は良く見えた。
 そこにもう一度、唇を寄せてきつく吸い上げれば、最も紅い痕が残る。それに少し満足げにすれば、そのまま何もせずに部屋を出て行く。
 一度だけ振り返る素振りを見せたものの、決して振り返りはしなかった。
 鍵をきつく握り締めれば、巧妙な細工が掌につぷりと刺さり血が滲み出る。しかし海馬は気にしなかった。
 血は幾ら出ようが、今の持て余した感情に代えるものにはならないからだ。
 傷を気にすることなく自室に戻り、珍しくも机の上に広げたままの仕事に取り掛かかることにした。
 今の海馬には、仕事だけが全てを忘れられるものだった。

 2007.12.28
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