目が覚めた時、体が妙にさっぱりしていた感はあった。そして手を伸ばした時にカツンと何かに触れた。
 思わず頭を持ち上げれば、そこにはケーキとティーセット。
 ポットに触れれば俄かに暖かい。これが置かれたのは、そう前ではないようだ。彼は起き上がりシーツを羽織って扉の前に立ちドアノブを捻るが、がちゃがちゃと音がするだけで何もない。

「…そー都合良くはいかねえか」

 あの少年が自分のために鍵が違うんだと言ったのは分かっていた。取ってくるとは言ったが、あれは兄が持っている。そう易々と渡すようならこんな場所に閉じ込めるはずかない。
 少年には気の毒だが、期待はしていなかった。一抹の光を見いだしたが、淡く溶ける光で絶望したくはない。
 自分にとって一番信じられるものは、今は自分しかいないのだ。
 諦めてはいないが、どこか諦めに似た感情を抱く。ベッドの端に腰掛け、置かれたトレイを見た。
 毎日、一度だけ必ず何かがベッドヘッドに置かれている。間違いなくあの男が置いたものだ。
 意地を張って食さなくても良いが、生憎そうはいかない。
 もう二週間は経つこの状況だ。一度も食べずにいれるほど、我慢強くはなかったらしい。そして誰も居ないのなら尚更、意固地になる必要もなかった。
 それに自分の持論は人は憎からず思えど物には当たらずだ。このケーキには何の罪もない。もっと 言えば投げた枕にも、この部屋にも屋敷にも罪はない。
 憎いのはあの男のみだ。
 置かれたままのケーキに手を伸ばし、がぶりと噛り付く。
 そしてふと思った。
 今日はあの男を見ていない。

海馬の犬

 昨夜の一件から中々寝付くことができなかったモクバは、少し眠い瞼を擦る。
 起きても尚、部屋の片隅に磯野が立っていた。職務に忠実だとは思うが、この調子では体を壊しかねない。あの兄に仕えるだけありタフネスだが、かなり辛いはずだ。
 モクバは起き抜けに、まず磯野に声をかけた。
 兄の言葉に忠実だが、少なからずとも自分も海馬の一員だ。聞いてもらえなくとも、留意してもらえればそれでいいという気持ちで言う。

「磯野、昨日はごめんな。お前も疲れたろ?ちゃんと休んでくれよな」

 きっと兄は今日も磯野を酷使するに違いないが。
 サングラスの下の表情は分からないが、彼は何も言わずに頭を下げる。モクバは、ただ頷くことしか出来なかった。
 そのままクローゼットの方に向かえば、磯野は静かに部屋を後にする。

「………………非力って辛いぜぃ」

 洋服を取り出しながら、ぽつりと漏らした。モクバにとって、誰も聞いていないからこそ言える言葉だった。
 今までは一度もそんなことを思わなかった。兄の加護と監視の下にいることが当たり前だったからだ。そして一度も自分の力を認めてもらえなかった。
 今思えば、兄がなにかをするたびに自分もそこにいたものの、最終的判断は兄が下していた。
 バトルシティで大会運営委員長をしていたが、あれは兄が出場するからだ。結局、権限は全て兄にあった。
 副社長も名ばかりだ。
 会社のことは大概把握しているが、最終的には兄が全て取り仕切る。相談も何もなかった。社長だから当たり前かもしれないが、全て抱え込んでモクバには何も関係が無いと言われるばかりだった。
 モクバが兄の役に立たないのではなく。
 兄はモクバの力を必要としなかったのだ。
 子どもだから、そんな理由で兄は排除するような人ではない。固く見えてリベラルな思考を持っている。
 ならば、純粋に自分の力を必要としてもらえなかったとしか考えられない。
 結局、モクバに力の及ぶものはなにもなかった。非力だった。
 少し考えれば分かったが、考えたくなかったかもしれない。きっと兄の役に立っていると思っていたかったのかもしれない。
 だが今更、過去のことでとやかく考えても仕方がない。今は、城之内のことだ。

「決戦は今夜だぜぃ…兄サマ」

 何としても兄を説得し、鍵を渡してもらわなければならない。
 城之内のためにも。そして、兄のためにも。
 モクバはジーンズの編み上げ部分の紐を堅く結ぶ。まるで決意の表れかのように。
 そして、真っ先にすべきことを考える。何を今必要としているのか。非力であろうともモクバにしか出来ないことがある。
 大人よりも良く働き回転する脳で、一つひとつ考えていく。

「まずは遊戯に連絡取らないと…。それから、バイト先に家族、学校…後は…」

 彼の遊戯という名の二人の親友は酷く過保護だ。特に兄が好敵手と言う方は血眼になって探しているだろう。今日まで一度も彼が押し掛けてこなかったこと自体が不思議なくらいだ。
 また兄に報復をされては適わないので、とにかく言葉巧みに誤魔化さなければならない。
 その後は数多のアルバイト先だ。
 二週間も連絡無しでは、幾ら城之内の家庭の事情を把握していようと今まで通りとはいかないだろう。
 次は彼の父だ。不在の間、どんな生活をしていたのかも想像に付き難い。帰ってこないがために、なにをしでかしているか分かったものじゃない。
 そして学校。成績不良なだけに出席だけはまともにしていた。それを半月分欠席したとなれば、テストで取り返さなければならない。果たして、それが城之内に可能であるか。本人には悪いと思いながらも、モクバはまず不可能に近いと結論を出す。
 ここまで指折り数えればそれなりの数だ。兄はそこまでは考えずに攫(さら)ってきただろう。それをフォロー出来るのは、今は自分しかいない。
 よし、と小さく意気込んで部屋を飛び出した。

「モクバ様!?」
「磯野!ダイジョーブだぜぃ!今は何もしない!」

 呼び止めようとした磯野を振り切り、長い廊下を駆け抜けていく。

「……今は、ですか…?」

 モクバの小さくなってゆく後ろ姿を見送りつつ、ぽつりと呟いた。
 あの少年は兄と違い突拍子もなく無鉄砲なことはしないだろうが、それでもやはり海馬の弟なのだ。人としての軸がややずれている兄を持つだけあり、懸念はどう頑張っても拭いきれない。
 嫌な方に意識が向きかけていた際、胸元の通信機も兼ねるKCの記章が音を立てる。これを鳴らすのは世界中でたった一人しかいない。
 磯野が仕える主、海馬瀬人。
 素早くそれに応対する。記章越しに聞こえてくる低温ながらにも耳にしっくりとくる声は、やや苛立ちを孕んでいるように聞こえた。
 しかし、不機嫌そうなのはここ数日は日常なので気にすることはない。彼は極端に感情の起伏が激しいので、気にしていては側付きとして仕事は出来ない。
 そこを弁えた磯野は気にせずに話を続けた。

「了解しました」

 ぶつり、と通信の切れる音。ただの仕事の話であった。
 主が眠るまでは職務を果たさなければならない自分に苦笑する。
 綺麗に磨きあげられた窓越しに、太陽がキラキラと光っている。たまにはサングラスを外して外を眺めるのもいい。
 眩しさの余り瞳を伏せるが、久しぶりに見た太陽。
 ひとつ伸びをして、今日もやや神経質で自己中心的な主の元に向かった。

 2008.01.10
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ちょっとばかり明るめ。