珍しくも夕刻に帰宅する。
 ここ最近は何かに追われるような生活をしていたせいか、どうしても帰りが遅くなるのは致し方なかった。別段、帰宅はせずとも社に泊り込めば良かったが、どうもそういう気分ではないので仕方がない。
 そして、その疲れとストレスを晴らすため、はたまた別の意味合いを持ってか毎夜あの部屋に訪れた。
 嫌だと叫び抵抗する肢体を無理やり抑えつけ、幾ら泣こうが喚こうが罵られようが、この不可解な感情のまま犯した。もう二週間は経つが一度も屈しなかった姿勢には、流石だと感服するところはある。

「流石、犬というところか…」

 しかし、結局はそこまでだ。
 自分の手の中には転がってこなかったあの男を憎らしく思う。
 「犬」ならば犬らしく尻尾を振って従属すればいい、そう思っている彼にはこの状況は不愉快だった。
 ただの野良犬相手には思わないが、あれは彼にとって飼い犬も同然なのだから。
 ネクタイを緩め、白いスーツをベッドの上に放り投げた。そして執務用の椅子に乱雑に身を投げだし、深い溜め息を吐く。
 きっとあの貧乏性の男ならば、投げ出したスーツを見るなり吠えるのだろう。そして何だかんだ言いながらも丁寧にクローゼットにかけるに違いない。ふとそんなことを思い、目を伏せ口元に微かに笑みを浮かべた。その笑みの意味は自分でも分からない。
 ずるり、と椅子に体を埋めるようにだらしなく座ってみる。
 彼という人を考えれば、まず有り得ない姿勢。しかし、なんとなくこういう気分だったのだ。だからといってこのままというのも可笑しなものだと考え直し、いつも通りに姿勢を正す。
 丁度その時、部屋の扉がノックされた。

海馬の犬

「おかえりなさい」

 ひょこりと扉から顔を覗かせる。短く返事をすればモクバは部屋に入ってきた。そして昨日とほぼ変わらない位置に立ち、漆黒の双眼で彼を見る。
 昨夜のやり取りから考えれば、もっと違う色を込めて自分を見るのかと思っていたが、普段とそう変化はなかった。だが大きいアーモンド型の眼はしっかりと彼を捉えて放さない。
 腕を後ろに回し兄の顔を覗き込むように見た後、少し微笑んだ。

「兄サマ、昨日の続きだぜぃ」
「…ああ」

 本当は口を動かすことも億劫だが、約束をした以上は違えることを許さない。
 軽くあしらっても構わないが、目の前にいるのは自分と血を分けた弟なのだ。そう簡単に放しはしないだろう。幼いといえど、そこに付込もうものならば痛い目を見るのは明らか。
 そういう風に育つようにしたのは自分なのだから、ここで違えるような真似はしない。
 海馬は執務机の引き出しから一冊の本を取出し、机の上に置いた。
 学術書か小難しい洋書のような太さであり、見るからに華美だった。モクバはそれを見て、元々の持ち主の顔を思い浮べる。後にも先にも、こんな華やかで装丁に拘った物を持ちたがったのは知る限り一人だけだ。
 兄に教育と称した体罰を施し、自分には全く興味を示さなかった養父、ただ一人。
 恐る恐る手を伸ばしそれを取るが、南京錠にも似たものがぶら下がっていた。なんとも厳重なことかと溜め息が漏れる。
 ここまでしなくとも、養父に好んで近付く輩はいなかった。仮に盗ったとしても、そう易々と秘密を暴露するようなことはしない。あの養父は徹底した保身をする、そんな男だ。
 本人もそれを分かって誰も破れない金庫や錠前には興味を示さなかった。実用性より見た目に拘った結果が、あの扉やこれである。
 だからつい溜め息が漏れる。何をそこまでして守りたかったのかと。この華美なものには不釣り合いな錠だ。

「剛三郎の物は処分したはずだった」

 憎らしげに吐き捨てる。
 確かに死後、剛三郎仕えの使用人を全て解雇し、あの部屋の中にある物も収集していた骨董品さえも処分した。剛三郎の物と分かるもの総てを彼は廃棄した。
 流石に扉などの大掛りな物は立て付けそのものからの見直しを余儀なくさせられ、色々な制約があったがため面倒と放置していた。それ以外の剛三郎の物は総て海馬邸には無いはずである。
なのに今更になって何故出てきたのか。
 それは海馬が一番知っていることだった。
 一見すれば何もない部屋。今は自らが連れてきたあの男を幽閉している部屋にあったのだ。ただ何もない部屋だと思い込んでいたが、一筋縄ではいかない男らしく床下に隠されていた。
 偶然床に奇妙な亀裂を見付け探ってみたところ発見してしまった。
 すぐに処分しようかと思ったが、妙に頑強な鍵であったがために興味を掻き立てられた。しかし、それに付けられた鍵穴は奇妙な形で照合したものを作ろうにも時間がかかりそうだ。
 決闘と仕事以外への諦めの良さのせいか破棄も考えたが、そこでもしやとその周辺を探ったところ鍵も見つけた。
 灯台下暗しである。
 海馬からすれば剛三郎らしくない隠し方だった。隠すとなれば、あの男は誰も気づかない場所−それこそ使用人の腹を割いて臓器の中に入れることだって問わないはずだ。
 にも関わらず、この隠し方。敢えて分かるような場所に隠すのだから、余程のものだと漠然と思った。

「ねえ、鍵は?」

 モクバはそれを両手に持ったまま上下左右に回転させている。シャラリ、と装飾が揺れる。
 言われ、胸ポケットから鍵を取出し何度かペンを回すように指に添わせる。彼の長く細い指の軌道は恐ろしく美しい。それに視線を獲られるがその指が鍵を弾く。
 コントロール良く弾かれたそれは、モクバの手の中に納まった。

「…剛三郎らしくないぜぃ」
「…そうだな」

 カチリと音を立てて錠を外す。
 軽く中を見るものの、すぐにモクバの顔が歪んだ。たった三ページしか書かれていない、ほぼ白紙と言っても差し支えないものだったからだ。
 にも関わらずこの厳重さ。純粋にここで書くことを止めたのかと思ったものの、それならばさっさと捨てるに違いないと思い直し、もう一度読み直す。
 しかしその少数な中に目を通しても別段取り立てることもない。モクバには剛三郎も、これが理由だと言った兄も理解が出来なかった。

「よく分かんないぜぃ。兄サマ、これが何?」
「…犬だ」
「イヌ?イヌって、あの?」

 あの、と聞いたものの、兄の意味する犬は一つしかないと気付く。
 兄は道に咲く名のある花にも興味がなければ、人にも興味を示さない。まして動物となれば更に話は別で。大まかな種分けは分かるだろうが、細かな種などはデュエルモンスター以下の認知度に違いない。
 そうなれば答えは自(おの)ずと導かれて、犬が何を指すか理解できた。
 この館に捕われた身の上で、モクバが必死に助けだそうとしている彼しかいない。

「これ、が…原因?」
「…そうだな。原因というよりは、きっかけにより近い」
「きっかけ…」

 海馬は軽く溜息を吐いて目を閉じた。
 そしてゆっくりと、訥訥(とつとつ)と語り出す。
 この話の始まりを。

 2008.02.04
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